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----------------------------1100〜1150--------------------------------
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########## イール=アルスラン (?-1172) (在位1156-1172) ##########

ホラズム=シャー朝のスルタン。妃はトゥルカン。
セルジューク朝の混乱に乗じて西ホラーサーン地方を占拠した。
1171年に西遼の攻撃を受けると自ら出陣するも行軍中に病に罹り、軍隊の指揮を配下の部将に委ねるがホラズム軍は大敗した。
ホラズム=シャー朝はセルジューク朝の有力者ムアイヤド=アイアパの従属下にあったが、
彼の没後に王国はテキシュ・スルタン=シャー兄弟の内乱を経て最盛期に向かった。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫)・原書房『トゥルキスタン アジアの心臓部』(ユーラシア叢書))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 53  57  64 BDCE 農+++++ ++++城+



########## カルマ (?-?) ##########

西遼の外戚([馬付]馬)。
ホラズム=シャー朝のテキシュが西遼の使節を殺害、当時テキシュと敵対していたスルタン=シャーは西遼に赴き、
ホラズム地方の住民は自分の復位を切望していると耶律大石の妃に説いて出兵を要請した。(1172年以降の事件である)
命令を受けた彼はホラズム地方に侵入するが、オクサス河の水流を利用したテキシュの足止めに苦戦させられ、
また同地の人心がスルタン=シャーになびいていない事を見て取ると、一戦を交えることなく撤退した。
(参考文献:原書房『トゥルキスタン アジアの心臓部』(ユーラシア叢書))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 53  54  57 CCBE ++++++ ++++城+



########## 蕭斡里剌 (?-?) ##########

西遼の官人。
長子の朶魯不は承天太后・普速完(プスカ、またはプスヤン)の夫にあたる。
次子の朴古只沙里と姦通していた普速完が朶魯不を左遷・暗殺すると、彼は長子の仇を討つべく策を講じた。
1177年に兵を率いて宮廷に乗り込み、朴古只沙里と普速完を射殺した。
(参考文献:中華書局『遼史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 51  57  60 DBCE 農+++++ +突++++



########## 耶律夷列(イリ) (?-1163) (在位1143-1163) ##########

西遼の皇帝。仁宗。耶律大石の子。
父の死後王位に就くが、若年であったため母・塔不煙(タブエン)が摂政となった。
夷列の死後は妹の普速完が摂政となった。
(参考文献:平凡社『アジア歴史事典』)


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 62  49  56 CCCE +商+++登 ++++++



########## ファフルッディーン=ラージー (1149-1209) ##########

イランのアシュアリー派神学者。レイの出身。
中央アジアを転々とした後、ホラズム=シャー朝の保護を受けてヘラートに定住する。
ヘラート定住後はマドラサでの講義・著述活動に専念した。
広範囲の分野に著作を残し、代表作に神学・イスラム哲学の議論を盛り込んだコーラン注釈書『不可視界の鍵』がある。
(参考文献:岩波書店『岩波イスラーム辞典』)


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 62  36  53 EEEE +++文++ ++++++



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----------------------------1151〜1200--------------------------------
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########## バルチュク=アルト=テギン(巴而術阿而[心弋]的斤) (?-?) ##########

ウイグル王国の王。イディクト(亦都護)を王号として用いた。
1125年ごろにウイグルは西遼に従属し、ウイグルには西遼から派遣された徴税官が駐屯していた。
この総督があまりにも悪辣でウイグル国民の憎悪の的となっており、1209年にバルチュクは徴税官を殺害して西遼と断絶した。
この事件を聞いたチンギス=ハーンはバルチュクの元に使者を送り、バルチュクはモンゴルに臣従を表明した。
メルキト部の残党が領内に逃げ込むとこれを討ち、多量の貢物を送ったことを評価され1211年にチンギス=ハーンの娘を娶り、
[馬付]馬(キュレゲン)として実子と並ぶ厚遇を受けた。
その後はモンゴル帝国の征西に従軍し、オゴタイの治世に没した。
死後、次子の玉古倫赤が王位を継いだ。
機を見るに敏な王であり、西遼を捨てモンゴルを選んだのは賢明な判断であったが、
モンゴルに臣従することによって優秀な人材が流出し、王国の崩壊を早めることとなった。
(参考文献:山川出版社『中央ユーラシア史』(新版世界各国史)・中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』・中華書局『元史』)


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 69  61  73 CCBE +商++外+ ++++++



########## ビルゲ=テミュル (?-?) ##########

ウイグル王国の官僚。
一族は代々ウイグル王国で財務長官を務めていた。
西遼の徴税官の殺害に関与するが徴税官の元にあった財産を横領したと讒言され、バルチュクが讒言を信じてしまったために、
弟とともにチンギス=ハーンの元へ出奔した。
モンゴルでは破格の待遇で迎えられ、子孫もモンゴル帝国で高位に就いた。
(参考文献:山川出版社『中央ユーラシア史』(新版世界各国史)・中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 72  24  61 DEEE +商++++ ++++++



########## アリー=シャー (?-1212?) ##########

ホラズム=シャー朝の王族。スルタン・テキシの長子でムハンマドの兄にあたる。
1208年に弟のムハンマドが西遼との戦いに敗れて捕虜となると、タバリスタン地方で王を自称した。
ムハンマドが西遼から帰国すると両者の不和は決定的になり、彼はゴール朝に亡命した。
ゴール朝のスルタン・マフムードが暗殺された後、ゴール朝の王位を継ぐことをムハンマドに求めるが、
彼の振る舞いを快く思わないムハンマドによって暗殺された。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫))


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 45  47  32 CDCE ++++++ ++++++



########## ナースィル=ウッディーン=ニザーム=アルムルク (?-?) ##########

ホラズム=シャー朝の宰相。
元は奴隷であったが、太后テルケン=ハトンの寵愛を受けて宰相の位にまで昇任した。
誠実さを欠いていたためスルタン・ムハンマドからは疎まれていたが、テルケン=ハトンの権勢をかさに
弾劾を免れ、汚職を重ねていた。
後にテルケン=ハトンがモンゴルの捕虜となると彼も捕らえられ、タールカーンで処刑された。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 49  32  56 DEEE ++++++ ++++++



########## ターヤンクー (?-?) ##########

西遼の軍人。
1210年に客将のクチュルクが起こした反乱に乗じてホラズム=シャー朝が西遼に侵入すると、これを迎え撃った。
しかし、スルタン・ムハンマドに敗れ、捕虜となった。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 20  51  38 CCBE ++++++ ++++++



########## カラージャ=ハーン (?-?) ##########

ホラズム=シャー朝の軍人。
イナルチュクが守るオトラルがモンゴル軍に包囲されると、一万の騎兵を率いてオトラルに駆けつけた。
しかし、五ヶ月が過ぎると城内の士気は下がり、彼はオトラルからの脱出を図った。
闇夜に逃れて脱出するがモンゴル軍に捕えられ、降伏を申し出るも忠義を欠いた行動が嫌われ処刑された。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫))


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 51  47  36 CDCE ++++++ ++++++



########## ナジーブ (?-1222) ##########

サマルカンドの医学者。
モンゴル帝国の侵入の際にヘラートで殺害された。
代表作に『病気の原因と徴候』があり、この本は17世紀に完成した『アクバルの医学』の原本となった。
(参考文献:平凡社『アジア歴史事典』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 55  14  51 EEEE +++文++ ++++++



########## ルクン=ウッディーン=グールシャーンチー (?-1220) ##########

ホラズム=シャー朝の王族。スルタン・ムハンマドの長子。
父からイラク=アジャーミー地方を所領として与えられた。
しかし、実権はムハンマドが派遣した宰相のアーマドに握られており、モンゴル侵入の際には
アーマドをムハンマドの元に送り、厄介払いを果たして実権を回復した。
モンゴル軍が領内に侵入するとケルマンで財宝を徴発し、反徒ジャマール=ウッディーンとの戦いに備えるが、
モンゴル接近の報を聞いてライ付近のドンバーワンド城に立て篭もった。
半年の攻防の末に城は陥落し、モンゴルへの降伏を拒んだルクン=ウッディーンは妻子と共に処刑された。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫))


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 57  59  46 CDBE ++++++ +++火++



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----------------------------1201〜1250--------------------------------
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########## ウズラグ=シャー (?-1220) ##########

ホラズム=シャー朝の王族。スルタン・ムハンマドの第四子。
母は太后テルケン=ハトンと同じバヤウト族の出身であったことからテルケン=ハトンに愛され、
ムハンマドも当初は彼を後継者とするように思ってホラズム・ホラーサーン・マーザンダラーンを彼の所領とした。
しかし、モンゴルの侵入を受けて国が滅亡の危機に瀕すると、ムハンマドは死の間際に彼を皇太子から廃し、
武勇に優れる三子のジャラール=ウッディーンを後継者に任命した。
以降は兄ジャラールに従い、ジャラールがホラーサーンに脱出すると彼も兄弟アーク=シャーと共に
ホラーサーンに逃れようとするも、モンゴル軍の追撃を受ける。
ワシュト村に戦陣を敷いて一度はモンゴル軍を撃退するも、勝利の直後に別の部隊から再度攻撃を受け戦死した。
(参考文献:平凡社『モンゴル帝国史』(東洋文庫))


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 51  68  42 BCCE ++++++ +突++++



########## マフムーラ(馬木剌) (?-1266以前) ##########

ウイグル王国の王。玉古倫赤の子。
モンケの南宋遠征に従軍、釣魚山で功があった。
(参考文献:中華書局『元史』)


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 51  59  57 CDBE ++++++ 機+++++



########## ユチガル(火赤哈兒) (?-?) ##########

ウイグル王国の王。マフムーラの子。
1266年にフビライから王位の継承を認められた。
アリクブカ・ハイドゥの乱に巻き込まれてビシュバリク地方を失い、一族・領民と共に高昌に移動した。
1275年にドゥアに高昌を包囲されるが、バルチュクがチンギス=ハーンから受けた恩を掲げ、ドゥアへの降伏を拒絶する。
しかし、包囲が長期に及び食料が尽きると、ドゥアに娘のイェリ=イハミシ=ベキを差し出すことを条件として軍を退かせ、高昌と領民を守った。
戦後、フビライから褒賞とグユク=ハーンの娘パパカルを与えられた。
その後再びハイドゥ・ドゥアから攻撃を受け、奮戦するも戦死した。
(参考文献:山川出版社『中央ユーラシア史』(新版世界各国史)・中央公論社『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』・中華書局『元史』)


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 57  58  52 CCCE ++建+++ ++++++



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----------------------------1251〜1300--------------------------------
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########## ニギュリン(紐林) (?-1318) ##########

ウイグル王国の王。ユチガルの子。
父の没時には成人していなかったが、フビライに父の仇を討つために出兵するよう幾度も要請し、その志を評価された。
青海で反乱が起きた後、吐蕃宣慰司に任ぜられて同地の鎮撫にあたり、賊の討伐と民政に心を砕いた。
カイシャン即位後に青海から召喚されイディクトの継承を認められ、次代のアユルバルワダには高昌王に封ぜられ、
宗族と同じく独自に官人を雇うことが認められた。
最初、オゴタイの孫娘ブルカンを娶ったが、ブルカンが夭折するとその妹の八卜叉と結婚した。
八卜叉が没した後、安西王アナンダの娘グラチェンと再婚、彼が設けた二人の子はいずれも八卜叉との間にできた子である。
(参考文献:中華書局『元史』)


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 62  46  54 CCDE 農+++++ 機+++++